2017年10月 銀海号

医療前線 わが診療所

 

2012 9月 MMS 発行 Medi-Net Vol.40

小さな工夫

 

2006 3月 MMS 発行 Medi-Net Vol.21

患者さんへのメッセージ

 

2005 3月 銀海189 号

「開業して思うこと」

 

200311月 MMS 発行 Medi-Net Vol.14

小さな工夫集

 

199910月 銀海162号 

教室だより 

 

1996 7月 銀海149号 

リレー随想 from USA(PART2) 


銀海

医療前線 わが診療所

開業生活には いつもYAZAWASENJUがいた

 

はじめに

 『2003726日北海道旭川市に無床クリニックを開設致しました。医療過疎地といわれる北海道ですが、旭川は医大もあり、所謂激戦区です。眼科医になって15年、大学病院で10年(うち2年間留学)、関連病院で5年の勤務医生活を満喫しました』と20053月 銀海189 号「開業して思うこと」を掲載してもらいました。私の眼科医生活には、つねに矢沢永吉さんと千寿製薬さんがいました。

 

入局後

 1989年旭川医大眼科学教室に入局し、研修医生活を始めた直後、198910月 銀海122号教室紹介に研修医として掲載されたのが、私の眼科医生活のスタートでした。研修医時代「20代頑張ってない奴は、パスポートもらえないんだよ。パスポートに“判"押してもらわないと30代入れないから。だから、オレ“泣くなよ"っていうわけ。泣かないためにはやっぱりパスポートもらえるように申請出せるようにしないといけないし」(1980年映画RUN&RUN)永ちゃんにそう言われて、頑張っていた気がします。

 何となく疲れた、と思う時がありますよね。「いつの時代だってやる奴はやるのよ。やらない奴はやらない。(中略)やる奴のほうの部類にあなたも入ったら、ってこと言いたいんだよね、そいつが決めることなんだからさあ、思わない?」(1983NHK総合 特集YOU矢沢永吉からのメッセージ)永ちゃんは、そう言ってたよね、やるしかないでしょ。そんな気持ちでした。

 

留学

 吉田教授にご推挙いただき、199311月から199510月までの二年間、Schepens Eye Research InstituteLaser Doppler Laboratory に留学し、その間の生活について、19967月銀海149号リレー随想 from USA(PART2) に掲載してもらいました。

 199910月銀海162号教室紹介に、助手として紹介され、『職場でも家庭でも「無駄な時間を過ごさない」をモットーにテキパキ頑張り、余った時間を無駄に過ごす』が掲載されました。

 大学病院での眼科医生活は良き先輩と楽しい後輩に恵まれ、充実していましたが、連日のアブラギッシュな生活からか胆石発作にさいなまれました。ずっと患者サービスと家族サービスを隠しテーマにやって来ましたが、そろそろ本腰を入れてこれらのテーマを完成させようと、単身赴任にピリオドを打ち、改行(開業)となった次第です。

 

開業

 開業するにあたっての経営理念は「患者さんに優しい眼科クリニック」です。常に患者さんが自分だったら、自分の親だったら、自分の子どもだったらと考え診察し、自分がかかりたいと思う眼科を実現することでした。

 通勤の車(といっても永ちゃんがタバコを買いに行くために持ったキャディラックではなく、75年オンボロビートルですが)の中では、永ちゃんのカセットテープ(!)をガンガン流し、クリニックに着いたら、まずは永ちゃんのDVDをかけてモチベーションを上げます。そんな毎日の中でも、開業医の仕事は孤独で、煮詰まることも多々ありますよね。

 振り返ってみると、開業で大事なことは永ちゃんから学んでいました。

 開業医の生活って(もちろん僕だけかもしれませんが)大学にいた時の生活と違って、もの凄く単調に感じるんですよ。「人は、一瞬のハッピーがあったらまた走れる。毎日、毎日ハッピーが来るわけないんだよね。今日もコレか・・・昨日もコレか・・・明日もコレっていう時に、土曜日あたり、いいことが一発ポーンってあったら、来週1週間また頑張れるみたいな、人間ってそんなもんじゃない。そんなもんよ」(2009NHK総合 SONGS)永ちゃんでもそうなんだもの、継続することに意味を見いだしたいと思います。

 「矢沢が、手を抜いたら、うしろを向いたら、グッド・フレンドが去っていく。ファンも離れていく。オレは怖さを知ってる。安心が欲しい。安心してるためには、行動して裏付けをとること」(1978年成りあがり)グッド・フレンドはスタッフに、ファンは患者さんに読み替えて受け止めています。

 永ちゃんは100回目の武道館公演の時(20071216日)に「ずっと矢沢を応援してくれているファン、矢沢のファミリー、バックミュージッシャン、メンバー、クルー、そして矢沢のこの筋肉、サンキュー!」と雄叫びをあげましたが、今、開業して何とか14周年を迎えることができ「ずっと受診してくれている患者さん、自分のファミリー、スタッフ、器械屋さん、薬屋さん、眼鏡屋さん、会計士さん、そして同門会の諸先生、サンキュー!」と雄叫びをあげたい気分です。

 

患者さんへのメッセージ

 20063月 MMS 発行の「Medi-Net Vol.21」に当クリニックの特集記事が掲載されました。開業して2年半までの取り組みを紹介してもらいました。200312月から毎月初めに発行している「優しい眼科通信」は今まで欠かさず発行し、164号を数えました。診察の時間だけでは、どうしても伝えきれない病気や検査や、時には当クリニックの待ち時間対策、白内障手術患者さんのアンケートの結果などを報告する場としています。

 「優しい眼科通信」の内容などもホームページにアップしていますが、当クリニックでは受診してくださった患者さんに直に伝えるアナログの情報発信を重視しています。問診票はA3サイズの大判とし、主訴・既往歴などの記入欄のしたに、なぜこれらの質問が必要なのかの意味を解説しています。ご記入いただいた後、検査スタッフが直に話を聞いて、漏れがないように留意しています。初診の患者さんには視力値などを記載した「検査結果」、検査の意味を説明した「検査情報」、受付スタッフが作成した「受診の流れ」を説明したプリントを渡しています。

 またネットでの購入に移行しがちなコンタクトレンズ検診の患者さんにも、眼科で検診を受けてもらうことの利点を感じてもらえるように「コンタクトレンズ検診情報」を3カ月ごとに更新し、診察室で渡しています。

 

スタッフからも情報発信

 スタッフ目線から、患者さんに伝えたい情報をお渡しする試みを20151月から始めました。それぞれの内容に関して患者さんに知ってもらいたいと思った時にスタッフから手渡すようにしていました。これが患者さんから大変好評を得ましたので、20154月から毎月新しいものを作ってもらって中待合室の柱に掲示すると同時に、一月分ごとに綴じて待合室にパンフレット棚を用意し、皆さんに持ち帰って読んでもらえるようにしました。

おわりに

 開業で大事なことは、永ちゃんのように一つのことにとことん根性入れて頑張ることではないかと実感しています。振り返ってみますと、ここまで永ちゃん、千寿製薬さんだけでなく、多くの方のおかげで何とか開業生活を続けて来られました。すべての方に恩返しするべきですが、患者さんに真摯に対することで、患者さんの未来が明るくなるように恩送りできればと考えています。

 

 19967月銀海149号リレー随想 from USAの最後に「日本で頑張ってくれた妻の理恵、長女の杏美、そして留学中に生まれた長男の駿に感謝しております」と書きましたが、杏美は今年旭川医大眼科に入局し、駿も大学5年になりました。次に銀海に掲載していただくときは『親子継承』について書かせてもらえることを目標に、これからも患者さんに優しい眼科クリニックであり続けられるよう、捲まず撓まず精進してまいります。やっちゃえ、OSSAN


Medi-Net Vol.40

2012 9月 MMS 発行「Medi-Net Vol.40」に小さな工夫が掲載されました。

 

Medi-Net の「小さな工夫」のコーナーでは、毎号、眼科医院の現場のアイデアを写真で紹介しています。色々なアイデアが紹介されており、当クリニックを開設する際にも参考にさせてもらいました。福谷さんが、受付の案内を紹介してくれました。

 

小さな工夫

予約のご案内

院長の直筆で

こんの優眼科クリニック

北海道旭川市

03.7.26開業

 

予約診療に関する患者さんへの案内ですが、先生直筆のメッセージにすることで、心のこもった温かいものになります。受付や会計時に患者さんの目にとまり、とても“優”しい案内になっています。(F


Medi-Net Vol.21

2006 3月 MMS 発行「Medi-Net Vol.21」に特集記事が掲載されました。

 

特集 患者さんへのメッセージ

HPや院内報で優しく温かく
--
10のお約束」の励行に様々な工夫--

開院以来、ホームページや院内報で地域の患者さんに優しく温かいメッセージを送り続けているのが、北海道旭川市の「こんの優眼科クリニック」だ。診療・手術にあたって患者さんに「10のお約束」を誓約されており、その励行に様々な工夫も。以下にその模様と「院長インタビュー」を--

『優しい眼科通信』

正面玄関アプローチ部分の柔らかな感じのウッドデッキ。バリアフリーの設計を凝らした院内。なかでも待合室はアットホームな雰囲気を醸し出し、とびきり明るい。道北の拠点都市、旭川市で「こんの優眼科クリニック」が開業したのは、20037月のことだった。この年の12月、同医院の院内報『優しい眼科通信』が創刊された。

 

<<「患者さんに優しい眼科クリニックをめざし、常に「患者さんが自分だったら、自分の親だったら、自分の子供だったら」と考え、診察させていただきます。「こんな優しい眼科クリニックがあったらいいな」と思う眼科クリニックを実現させるために、スタッフ一同、力を合わせてがんばります。(創刊号)>>

 

すでに開院と同時に、地域の患者さんにぜひ知らせたい情報をと、インターネットでホームページを立ち上げていた。『優しい眼科通信』は、このホームページに掲載した情報を抜粋して院内報(ペーパー)用に再編集したものだ。A4サイズ、2ページ分のささやかな体裁の患者さん向けお知らせペーパーではあるが、かわら版風の手づくり感にあふれ、ちょっとした記事にも伝え手の優しいメッセージと温もりのようなものが、切々とこもっている。

 

<<旭川の季節は駆け足で進んでいきますよね。そしてもう初雪。雪かきが始まるかと考えただけで、腰が痛くなりそうですが、雪に負けないように体調を整えて、冬を迎えましょう。今月号は「ドライアイ」についてのお話です。(第12号)>>

目の病気を平易に

毎月、月初に発行(約500部)し、受付まわりに置いて患者さんに配っている。昨年12月時点ですでに25号を数えたが、創刊号からのバックナンバーも、待合室の片隅に。昨年末に出した12月号では、自医院の日帰り白内障手術の実績をまとめ、紹介した。

 

<<開院から200510月末までに、396件執刀させていただいたことになります。手術患者さんは「家族・知人から紹介された」が、19→37→48%と年々増加してきております。患者さんに紹介していただける眼科をめざしておりますので、有難いかぎりです。(第25号)>>

 

バックナンバーを繰ると、各号に一貫しているのは目の病気の易しい説明だ。白内障や緑内障、糖尿病網膜症は言うに及ばず、視力(近視)、結膜炎、飛蚊症、涙目、花粉症、目薬の正しい使い方、コンタクトレンズ診療--と、患者さんが日常的に出くわす目に関する事柄を広く取り上げ、平易な表現で綴っている。また、院内での検査や診察についても具体的に触れ、「診察の時にはテレビモニターに映された画像を一緒に見ながら説明させていただいておりますが、何か気になることや疑問な点がありましたら、ご遠慮なく質問してください。質問していただきますと、さらに気合が入りますので」などと、患者さんに優しく呼びかけている。

 

スタッフの笑顔

電子カルテの導入をはじめ、電話・メールでの予約診療の受けつけなど、待ち時間短縮の工夫と試みは、開院当初にホームページや『優しい眼科通信』で地域の人々に表明した同医院の「10のお約束」のひとつだ。その10項目の約束の第一に掲げたのが「スタッフ全員が笑顔で患者さんに対応します」である。眼科通信には随時、スタッフの声も出しているが、彼女たちの明るさや真心は次のようにそれらの記事からも浮かび上がってくる。

 

<<今年の目標は「痩せたい!」とかいろいろありますが、気をつけたいことは言葉づかいです。きれいな言葉で話している人って憧れですね。仕事中ももう少ししっかりとした話し方が出来れば。(第14号)>>

 

インタビュー 院長にお聞きしました

--開業に踏み切られたいきさつを。

「勤務医として旭川医大病院で10年(うち2年間米国留学)、関連病院で5年を経ての開業でした。開業前には旭川よりさらに北にある士別というところの市立病院に勤めていました。外来の患者さんを多い日には200人近く抱えることがありましたが、患者さん一人一人、本当に満足されているのだろうか(?)という思いが、いつもありましたね。診察にあたっては時間的にある程度のゆとりが持て、患者さんに説明をていねいにして納得して帰っていただけるような医療でありたい--とそんな気持ちが次第につのり、開業へと心が傾いていきました。」

 

--医院名は「こんの優眼科クリニック」と、先生のお名前をフルネームで。

「一開業医として『患者さんに優しい眼科』をモットーとして地道に実践していきたい。私のファーストネームも優しいの『優』。自分のこの名前、実は『すぐる』なんですが、どう読んでもらおうと、看板に『優』を使わない手はないとこだわったわけです。開業ポリシーの思いを込めて

 

--現実は北海道第二の都市である旭川のこと。眼科の開業も『激選区』であると聞きます。

「その通りです。しかし、患者さんの立場に立って患者さんが望む医療とサービスのあり方を深く掘り下げていけば、活路はいろいろ見つかるはずです。とにかく自分のこれまでのキャリアでやってきたことを信じ、精一杯取り組んでいこうと、スタートから2年余りずっとやってきました。」

 

--「患者さんに優しい眼科」ということで、いきなり開業段階で地域の患者さんに向けて「10のお約束」を掲げられましたね。

「約束として診療時間や診療日そのものについて、かなり工夫を凝らしました。それに患者さんの待ち時間を短くしようと、電話・メールでの予約を受けつけることにし、また、思いきって電子カルテを導入して診察後の待ち時間の解消に役立てています。もっとも患者さんが全然お見えにならなければ、待ち時間なんていってもはじまりません(笑)。いまのところおかげさまで140人程度のペースで患者さんを迎えてやっております。」

 

--網膜などの目の状態の画像をモニターに映して症状を説明され、また、プリントアウトして写真を患者さんにお渡しされているそうですね。ていねいに説明される診察シーンが目に浮かびますが、いまより格段に患者さんが増えてきたらどうなるのでしょうか。

「私なりのやり方でも1時間に患者さん10人は見れます。ですから1日(8時間診療)で80人ぐらいまでなら可能です。ただ、これはあくまで計算上のこと。1時間に10人というペースで診るときがたまにありますが、これが8時間もずっと続くと、かなりきびしいですね。とくにカルテの作業が追いつかなくなる。補助にシュライバーを置くとか、音声入力を導入するとかしないと。ホームページも院内報もできる限りこまめに編集して出しているのは、診療中に必ずしも十分に行きとどかない検査や病気の説明をカバーするためです。」

 

--患者さんに動いてもらわなくても済むように、診察室の眼底カメラは台にコマを付けて移動式にされるなど、いろいろ工夫を凝らされているご様子。それに二つ折りの診察券には、患者さんの視力はじめ検査結果を診療日付順に記入されてお渡しされている。言いかえれば、細やかな気配りの「患者さんに優しい眼科」ということでしょうか。

「ホームページも院内報もできる限りこまめに編集して出しているのは、診療中に必ずしも十分に行きとどかない検査や病気の説明をカバーする視力値は口頭で伝えてはおりますが、患者さんの側からすると、それを覚えておくのは大変なのではないかと思い、それで診察券にも記入することにしているわけです。設備面で言えば、身の丈分の投資というか、当院はそんなに重装備ではないんです。それよりも地域の『かかりつけ医』としてどう向き合っていくかなんですね。無論、手術の場合は難度によって地元の基幹病院にご依頼しています。」

 

--白内障の日帰り手術が主体の手術の部は、休診日の前日を除いて毎日実施されているとお伺いしております。

「月~金の午後1時から3時の時間帯を手術に当ててやっており、1日に2件は無理なく対応できます。いまのところ月間20例ぐらいのペースです。手術の日まである程度はお待ちいただくにしろ、1ヵ月以内には何とかやってあげたいという思いでやりくりしております。また、手術患者さんのご家族の希望があれば、立会い室から手術を見守っていただきます。カルテ開示やレセプト開示まで含め、『開かれた眼科診療』を進めることこそ、患者さんの信頼を得る大事なカギになるというのが、私のポリシーです。」

 

--ホームページや院内報による情報発信も、その「開かれた眼科診療」を実践するうえでの不可欠な手段(メディア)と言えますね。 

「ホームページを見て受診される方は、実際にはまだまだ少ない。しかし、そうした患者さんはホームページ上であらかじめ私の顔もご覧になっているせいか、初対面でも何か親近感を持っていただいているような印象を受けます。その半面、『10のお約束』などを掲げていますから、けっして期待を裏切らないようにと、こちらはすごくプレッシャーを覚えますね。いずれにせよ、今年7月には開院3周年を迎えますが、いつ、どんな時も開業時の初心を忘れずに地道にやっていこうと思います。」


銀海189号

20053月 銀海189 号「開業して思うこと」が掲載されました。

 

患者さんが自分だったらと自問して

 2003726日北海道旭川市に無床クリニックを開設致しました。医療過疎地といわれる北海道ですが、旭川は医大もあり、所謂激戦区です。

 眼科医になって15年、大学病院で10年(うち2年間留学)と関連病院で5年の勤務医生活を満喫しました。大学病院での生活は良き先輩と楽しい後輩に恵まれ、充実していましたが、連日のアブラギッシュな生活からか胆石発作にさいなまれました。

 ずっと患者サービスと家族サービスを隠しテーマにやって来ましたが、そろそろ本腰を入れてこれらのテーマを完成させようと、単身赴任にピリオドを打ち、改行(開業)となった次第です。

 開業するにあたっての経営理念は「患者さんに優しい眼科クリニック」です。常に患者さんが自分だったら、自分の親だったら、自分の子どもだったら、と考えて診察させていただく、自分がかかりたいと思う眼科を実現することです。

 もちろんこの夢の実現には、お金という制約があります。親が医者ではない場合の開業は「ゼロからの出発」と言われますが、私の場合、留学していたこともあって自己資金もままならず、「マイナスからの出発」と皆から期待されておりました。

 私は自ら銀行との融資交渉を行い、MMSに作製していただいた診療圏調査の結果も持っていきました。

 MMSの福谷さんには本当にお世話になりました。いつも笑顔で、最初にお会いした時にはバブルヘッド人形かと思いましたが、こちらの疑問にはいつも適切な返答をいただき、感謝しております。

 銀行では「自分で資料を用意した医者はみたことがない」と感心されましたが、その割には貸し渋られました。

 設計には、眼科クリニックを手掛けたことがない建築家と偶然に出会い、待合い・受付には医療従事者ではない妻の意見を積極的に取り入れました。おかげでクリニックらしくない、明るく優しい建物になったと自負しております。

 開業して1年半が経ち、患者さんの少ない生活にも慣れてきました。ただ、電子カルテで診察後の待ち時間解消を目指しましたが、診察前の待ち時間も解消されているのは誤算でしょうか。

 そして、以前は網膜のブラッドフローが気になっていましたが、今はキャッシュフローの方が気になりますし、黄斑部の厚みが減ることを祈っていましたが、今はレセプトの厚みが増すことも祈っています。 

 診療圏も拡げたいとは思いますが、心了見を狭めないよう謙虚に精進し「こんなに優しい眼科クリニック」と呼ばれたいと思います。


Medi-Net Vol.14

2003 11月 MMS 発行「Medi-Net Vol.14に待合室の紹介が掲載されました。

 

Medi-Net の「小さな工夫」のコーナーでは、毎号、眼科医院の現場のアイデアを写真で紹介しています。色々なアイデアが紹介されており、当クリニックを開設する際にも参考にさせてもらいました。

今回のMedi-Net は、小さな工夫集 カラー刷り総集版です。デザイン(院内設計)というコーナーに福谷さんが、当クリニックを紹介してくれました。

 

待合室 アットホーム

こんの優眼科クリニック

北海道旭川市

2003.7.26 開業

 

待合室は家庭のリビングのようなアットホームな空間にと、さり気なく演出されている。壁を飾っているのは、エルメスの新作スカーフ。(F)


銀海162号

199910月 銀海162号 教室だより に旭川医科大学眼科学教室が紹介されました。

198910月 銀海122号以来の10年ぶり、2回目の掲載です。1回目の掲載の時は、研修医として、全員写真に紹介されましたが、2回目の教室だよりでは、教室員一人ひとりの顔写真と共にプロフィールが掲載されました。

 

そのプロフィールは、

1. 出身地

2. 出身大学

3. 趣味

4. 研究・テーマ

5. コメント

の5点についてで、字数制限がありました。

 

1. 出身地

2. 出身大学  

の2点については、そのまま書くしかありませんので、残りの

3. 趣味

4. 研究・テーマ

5. コメント  の3点で、いかに上手いことを書くかが、問題でした。もちろん、そんな風に考えていたのは、私だけだったようですが、、、、

 

ちなみに、A先生のプロフィールは

3. 読書(海外ミステリー)、海水魚の飼育

4. 網膜疾患における硝子体の役割、黄斑疾患

5. 誠意を持った診療と夢のある研究をするよう心がけています。

B先生は、

3. 英語、NFLMac

4. 網膜循環

5. 理論に裏付けされた臨床を実践すること。

C先生は、

3. 酒、読書、ガーデニング

4. 眼循環、緑内障

5. 患者さんに信頼される眼科医を目指しています。

といった感じで、立派なプロフィールがズラっと並んでいる中で

 

今野 優(助手)

1. 北海道

2. 旭川医科大学 1988年卒

3. お洒落<駄洒落、眼科医≦司会、家族サービス

4. 眼循環、    網膜厚解析、 患者サービス

5. 職場でも家庭でも「無駄な時間を過ごさない」をモットーにテキパキ頑張り、余った時間を無駄に過ごす。

 

という、プロフィールが掲載されました。これは、どこかでウケているかな?と期待していましたが、これを読んだ息子に「余った時間を無駄に過ごしちゃあ、ダメじゃない」と、つっこまれました。


銀海149号

19967月 銀海149号 リレー随想 from USA(PART2)に今となっては、随分と懐かしい留学生活についての話が掲載されました。

 

はじめに

 199311月から昨年(1995年です)10月までの二年間、Schepens Eye Research Institute(SERI)のLaser Doppler Laboratory に留学しておりました。この研究室では Laser Doppler Velocimetry の開発者のひとりである Gilbert T. Feke 博士の指導の下、網膜血流および視神経乳頭毛細血管血流速度の測定を行っています。1980年に吉田晃敏先生が最初に留学して以来、私が六代目の日本人フェローです。

 ボストンと言われても、ボストンバッグやロックバンドしか頭に浮かばなかった私でしたから、アメリカに着いた時は、まさに右も左もわからない状況でした。しかし幸いなことに、医局の先輩がたくさんおられ面倒を見てくださいましたお陰で、比較的順調にアメリカの生活に慣れることができました。

 私の前任者である藤尾直樹先生、SERI で硝子体の研究をされていた引地泰一先生、Massachussetts Eye and Ear Infirmary で水晶体の研究をされていた五十嵐弘昌先生、Simmons & Smith Eye Associates で緑内障の研究をされていた五十嵐幸子先生には大変お世話になりました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 また。このような素晴らしい機会をお与え下さいました吉田晃敏教授に心から感謝いたしております。

 

留学実感

 留学中の生活ぶりについて書くようにとのお話でしたが、私の場合は家族を日本に残した単身赴任でしたので、日常生活のことは皆さまの参考にはならないのではないかと思い、職場のことについて書かせていただきたいと思います。

 職場には、陽気なアメリカ人がたくさんいて、わかりにくいボストンなまりの早口の英語で話しかけてきます。私が単身赴任であることを知り、「アメリカ生活で気をつけなければならないことは脂肪の取り過ぎだ、女性にも気をつけたほうが良い。しかし、最も気をつけなければならないのは脂肪を取り過ぎた女性だぞ」などと忠告してくれました。

 非常に話好きでありながら英語が不自由な私は、伝えたいことが、うまく表現できず、ストレスを感じておりました。

 この状況で得られたこととしては、聞き上手になったことと、伝える内容を一度、頭の中で整理してから話すようになったことではないかと思います。

 

臨床

毎週月曜日は、Schepens Retina AssociatesJ.Wallace McMeel 先生の指導の下、網膜硝子体疾患の患者さんの外来診察をしていました。外来診療でもRightLight の言い分けが上手にできず、まさに右も光も分からない状況でした。

 日本での外来との違いとして、完全に眼科分野が専門化されていること、患者さん一人に対する時間が充分あること、強膜圧迫子を用いて、双眼倒像鏡で全例の最周辺部まで検査することなどがあげられます。

 診察、ムンテラにも余裕があり、一時間以内に完成する蛍光造影写真を前に、AMD の患者さんに"No ooze is good news." と励ます光景が印象に残っています。また、Frans Van de Velde 先生に SLO の臨床応用について指導を受けておりました。

 

研究

 月曜日以外は、ほとんど研究室におり、Laser Doppler Velocimetry を用いて、眼循環の研究をしておりました。

 Laser Doppler 法の利点として、散瞳を要すること以外は全く無侵襲な検査であること、他覚的に血流速度を定量できること、測定時間が短いこと、反復測定が可能であること、そして生理的状態で血流動態の評価がおこなえることなどのがあげられます。

 網膜血流の測定は、インスリン依存型糖尿病の患者さんを中心に行いました。糖尿病で網膜症を認めない患者さんの網膜においても、既に血流量の低下が観察されました。また経年変化を追うことで、罹病歴が長くなり網膜症が悪化するのに伴って、低下していた血流量が若干増加の方向に向かうことが観察されました。これらの結果は、毛細血管の無灌流やシャントなどの細小血管レベルでの微細な変化を反映しているものと考えられます。

 視神経乳頭毛細血管血流速度の測定は、緑内障の専門家であるBernard Schwartz 先生とPeter A. Netland 先生との共同研究として、高眼圧症での血流速度と網膜神経線維層の厚さの関係についての研究、眼圧降下剤の視神経乳頭血流速度に対する影響についての研究などを行いました。

 留学中にも患者さんと接することができ、また臨床と密接に関連した領域での研究ができましたので、今後の眼科医としての生活に役立てたいと考えております。

 

おわりに 

 最後になりましたが(きっとアメリカ人でしたら書くと思いますが)、日本で頑張ってくれた妻の理恵、長女の杏美、そして留学中に生まれた長男の駿に感謝しております。